今日、Apple Musicで佐野元春さんのアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』を購入した。
そう、“購入”したのだ。サブスクで聴けないから。
2025年の今、音楽のほとんどはストリーミングで手に入る。佐野さんの曲もほとんどは聴くことができる。けれど、このアルバムだけは、どうしてもその波に乗ってこない。YouTube Musicでも、Apple Musicのサブスクでも聴けない。「約束の橋」さえも、だ。それはまるで、デジタルの大海の中に取り残された孤島のような作品である。
私は昔から佐野さんの楽曲が好きで要所要所で聞いてきた。大学の先輩でもある。サブスク全盛の最近は、時々、サブスクで目にとまった曲を聞いてきた。『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』も表示自体はされるのだが、そのほとんどの楽曲が再生できないようになっており、今まではその都度別の曲へとスキップしていた。ただ、今日はどうしてもこのアルバムを聴きたくなったのだ。
なぜか?
このアルバムを聴いていた頃、確か高校2年生だったと思うのだが、その頃の感覚を思い出したのである。特にパッとした時期でもなかったのだが、とてもニュートラルな時だった。
「聴けない」という不自由が突きつける問い
「佐野さんがサブスクを嫌ってるんじゃないか」という声もある。
けれど実際はそう単純ではない。レコード会社や外国人スタッフの権利関係、契約上の制約――それらの見えない網が音楽を縛っているのかもしれない。『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』はロンドン録音で、多くの海外ミュージシャンと技術者が関わった。彼らの権利が現在のストリーミング契約と整合しない。おそらく、それが真の理由ではないだろうか。
皮肉なことに、インターネットの先駆者でもあった佐野元春さんの作品が、ネット配信の波から取り残されている。時代の先を走ったアーティストが、時代の仕組みに阻まれている。そんな構図にもどかしさを覚える。
手に入れるという行為の重み
サブスクでは聴けない。だからこそ、買うしかない。
ボタンを押すと、2,000円ほどが引き落とされ、デジタルながら自分の“所有物”として音がやってくる。
「所有」という感覚は、久しぶりだった。
サブスクの便利さに慣れていると、この「買う」という行為に、少しの覚悟が要る。
だが、その分、音楽に対しての姿勢が変わる。聴く前から「大事にしよう」と思う。
データではなく、作品と向き合う儀式のような感覚。再生ボタンを押した瞬間、心の中に静かな充足が訪れる。
作品の温度と時間
『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』は、1989年のアルバムだ。
乾いたギター、硬質なリズム、英語的なミキシング――当時の日本のロックにおいて、これほど「異国の空気」をまとった作品は少ない。
その一方で、言葉はどこまでも日本的で、街の片隅に漂う孤独や希望を描き出す。まるで、洋楽の波の中で泳ぐ日本語ロックのナポレオンフィッシュだ。
今聴くと、音の粒立ちが鮮やかで、どの曲にも“時代の温度”がある。
「ブルーの見解」「新しい航海」──どれもが佐野元春の「未来志向の1980年代」を象徴している。
当時の空気を封じ込めた音が、35年の時を超えて耳に届く。
それが、たまらなく嬉しい。
サブスクの海と、音楽の孤島
サブスクが悪いわけではない。
むしろ、音楽を民主化した最大の発明だと思うし、私は大好きである。
だが、そこには「聴けない音楽」が確かに存在している。
このアルバムを買った理由は、その「聴けない」に対する小さな抵抗だ。
聴けない音楽を、聴けるようにするために、自分の手で取り戻す。そんな行為に近い。
いまや、音楽は“所有”から“アクセス”へと移行した。
けれど、“アクセスできない”瞬間に、私たちは初めて“所有すること”の意味を思い出す。
データであっても、自分のライブラリにあるということは、確かな安心だ。
最後に──海の向こうにあるもの
ボブ・アンドリュースの訃報を耳にして、この作品を聴く意味はさらに深まった。
彼らが残した音が、こうしてまだ届くということ。
それは、時代や権利の壁を越えた“記録”であり、“遺産”でもある。
いつか、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』がすべてのサブスクで解禁される日が来るのかもしれない。
けれど、たとえそうなったとしても、今日自分の手でこのアルバムを買ったことは、きっと忘れないだろう。
あの時、サブスクでは届かない海の底に潜って、自分の意志で一枚の音楽を拾い上げた――その感覚こそが、音楽を聴くことの本質なのだから。
2025年10月6日 SHUN





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